TBSラジオ東京ポッド許可局2026年7月25日から。
幸せの国と呼ばれているブータンだが、ネットやSNSが普及し、世界の情報を知ってしまったことで幸福度が低下しているという。
我々も同じように、知らなくてもいい余計な情報を浴びてしまったがゆえに、かえってイライラや不満を募らせる現代を生きている。
情報が多すぎる社会では、「選ぶこと」自体が大きなストレスになる。
その結果、エンタメを見て「どこまでがリアルで、どこからが演出か」という曖昧さを楽しむ余裕がなくなり、処理できない感情を避けるために「あれは全部やらせだ」と最初から全否定する人たちが出てくる。
逆に、自分で考えることを放棄して何か一つを完全に信じ込み、カルト化してしまう人たちもいる。どちらも結局のところ、「考えなくていいから楽」という極端な選択に逃げ込んでいるだけだ。
これに対してプチ鹿島さんやサンキュータツオさんは、全部を信じるのも否定するのも味気ないと語る。
「これは本当か? ありなのか、なしなのか」と半信半疑の真ん中のポジションに立ち、自分の中で咀嚼して考えるプロセスこそが面白いのだと。
すぐに白黒つけたり安易な答えに飛びついたりせず、「考える時間に耐える力」を持てるかどうかが、今のすべてのカルチャーにおいて求められていると説いた。
サンキュータツオが「立川さぎ志騒動」を起した立川志らくに苦言
こうした「すぐ反応せずに考える時間」の話から、トークは現在の演芸界をざわつかせている騒動へと移っていった。
YouTuberのヒカルさんが、立川志らく師匠の客分の弟子「立川さぎ志」として異例の落語家デビューを果たした一件だ。
若手落語家や一部ファンからの批判に対し、志らく師匠は自身のSNSを通じてヒカルさんの資質を高く評価し、批判勢力を「負け犬の遠吠えになってはダメ」と真っ向から否定する姿勢を見せている。
ここでのサンキュータツオさんの苦言は、ヒカルさんの落語挑戦そのものではなく、「志らく師匠がいちいち批判に反応し、SNSで論争を起こしている姿勢」に向けられていた。
ヒカルさんが落語をやることで業界全体にお客さんが増え、プラスになるのであればプロの立場としては黙って「ありがとう」ぐらいに思っておけばいい。
わざわざSNS上で他者の意見を否定しに行ったり、炎上商法のように騒ぎ立てたりするのは「あんなの、ほっときゃいい話」と、志らく師匠の姿勢をバッサリ切り捨てた。
プロの演者であるならば、外野の声にすぐさま反応するのではなく、「もうちょっと寝かしておけ」という余裕を持つべき。
すぐに白黒つけようとせず、何も言わずに静観する「触れないことの色っぽさ」こそが、本当のプロの振る舞いではないかという主張である。
【私見】「ほっときゃいい話」サンキュータツオさんとプチ鹿島さんは本当に真ん中に存在してるのか?
ここで少し、私見を挟みたい。
彼らは「半信半疑の真ん中のポジション」の重要性を説くが、発信者である彼ら自身は、本当にそのポジションを守れているのだろうか。
例えば、プチ鹿島さんや、TBSラジオパーソナリティーの同僚とも言える武田砂鉄のスタンスだ。
武田砂鉄さんは自身の番組『プレ金ナイト』で、高市陣営の誹謗中傷事案について「信憑性が高い」と明言した。

しかし実際には、その情報源に捏造疑惑が生じ、文春も共同通信も手を引く事態になっている。
プチ鹿島さんに関しては辺野古女子高生事故について。
自らのイデオロギーに沿う情報であれば安易な答えに飛びつき、最も「真ん中のポジション」に立てていないのは、実はプチ鹿島さん自身ではないのか?
サンキュータツオさんによる志らく師匠への苦言も、これと同じ構図に見えてしまう。
志らく師匠の政治的主張とサンキュータツオさんの政治イデオロギーは、決して相容れない。そのイデオロギーの対立や不満が、今回の批判の根底に絡んでいるように見える。
もし本当に「触れないことの色っぽさ」がプロの美学であり、「ほっときゃいい」と本心から思っているのであれば、そもそもラジオの電波を使って志らく師匠の振る舞いにわざわざ首を突っ込む必要はないはずだ。
客分の弟子だとしても立川志らく師匠が騒動に口出すのは十分理解できる。神田伯山さんが弟子の「頑張りマンモス」な神田梅之丞がお化け屋敷に渋々ついてくるのをイジるように、師弟関係だからこその想いもあるだろう。
芸人が第三者の視点からこの問題に首を突っ込み、苦言を呈している姿はどこか滑稽に映り、当該者が反論できないラジオでまくしたてるのは、芸人としてまったく面白くない。
つい最近あった騒動との違いがわからないほど、まったく面白くないのだ。

「ほっときゃいい」と主張しながら、我慢できずに自ら触れにいってしまうその矛盾。リスナーからすれば、今回の彼らのトークそのものが、一番の「ほっときゃいい話」に聞こえてしまう。
ちなみに、普段から志らく師匠を壮大にイジるのが大好きな神田伯山さんは、自身のラジオでこの絶好の機会をあえて見逃している。
サンキュータツオさんが説いた「触れないことの色っぽさ」というプロの美学は、皮肉にも神田伯山さんのこの沈黙の中にこそ、存在しているように感じる。
半信半疑や真ん中なんて、無理して偽らなくていい。
サンキュータツオさんやプチ鹿島さんの思想をぶちまけるのが、東京ポッド許可局でいい。


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